第9回 亀井 よし子さん

hnyk_D09m_kamei_1  翻訳家・亀井よし子さん

『ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅』『ブリジット・ジョーンズの日記』『カジュアル・ベイカンシー』『人類、月に立つ』など、約30年間で手がけた訳書は100点以上。「ちゃんと数えたことないけど、Googleで見ると、そのくらいあるみたい」

 面白そうな原書を自分で探し、見つけ、訳して、持ち込む——そうして、純文学の翻訳という重い扉をたたき、道を開いてきた亀井よし子さん。文芸翻訳界ではまごうことなき“大御所”なのですが、実は、佐藤千賀子をはじめリリーフには、“フェロー・アカデミーの亀井先生”と御縁のあった者が多く、先生がこの2月で講師を勇退されたことに特別な思いを抱いております。
さて、「翻訳文学は絶滅危惧種か?」とまで言われるようになった今こそ、亀井先生と「希望の糸口を探りたい」と思いつつ、どうしても「右肩上がりだったあの頃」の話に花が咲いてしまいます…。
■インタビュー:佐藤千賀子(さとう ちかこ) ■テキスト:川上 洋子(かわかみ ようこ)

「翻訳文学を絶滅させないために」

亀井  1980年代にアメリカ文学で、当の作家たちにとっては不本意な名称だったようだけど、「ミニマリズム」という手法がもてはやされて、日本にもアメリカ小説のブームが来たのね。いきおい、それまで大学の先生がなさることが多かった文芸ものの分野で翻訳者の需要が高まって、私などにもチャンスが巡ってくるようになって。新聞の五段広告に新刊の広告が出ると、20本のうち半分が翻訳ものだったくらい。本屋に行けば、いちばん目立つ場所に翻訳本が平積みになっているという、今では信じられないような時代でしたねえ。
佐藤  翻訳バブル…でしたよね。田口(俊樹)さんは、毎月ミステリーを出せた1年間があって、「月刊・田口で〜す」なんて仰ってました。
亀井  田口さんや私は、いちばんいい時代を知っている世代。教え子に紹介できる仕事もたくさんあったから、彼女たちは下訳も経験せず、レジュメも書かずに、いきなり翻訳デビューして、1冊あげたらすぐ次の仕事にかかる…という感じでした。それが今では、リーディングから入って、1〜2冊は順調に来ても、突然「この路線はやめました」と言われるっていうから…。先日も、卒業生の集まりで、みんな「こんな時代が来るとは思わなかった〜」って。
佐藤  それぞれ事情があるのでしょうけど、「え、この本がこの出版社から出たの?」と驚くことが多いです。路線変えていかないと難しいんでしょうね。
亀井  私はもう“食い逃げ”みたいな感じだけど、今、文芸翻訳だけで食べていかれる人、何人いるかしら?って感じです。発行点数が減っているから、若手や中堅に回らず、数人のベテランに集中している状態でしょう? 比較的固定読者が多いといわれるミステリーの文庫ですら発行部数が減っていると聞くし、部数が出ないから値段が高くなり、ますます売れにくくなる。電車の中で紙の本を読んでいる人、ほとんどいないですものね。本屋さんに行っても、翻訳ものの棚は奥の奥にちょこっとあるだけ。
佐藤  出版社へ翻訳書を持ち込むと、「いい本だと思うんだけど、棚がないんだよ、もう」って言われてしまうんです…。
亀井  たとえば、毎年話題になる『本屋大賞』には翻訳小説部門もあるのだけど、全然話題にされないでしょう? 去年、私の『ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅』(レイチェル・ジョイス著/講談社)が2位に入ったのですが、表彰式翌日の新聞には、1位の作品さえ紹介されていないのよ。日本人作家の作品は10位まで載っているのに!!  海外ものというのは、それほど冷遇されているのよねえ。
佐藤  部数は少なくても「いい作品だから」ということで取り上げてくれてもいいのに。
亀井  むしろ、こんな時代だからこそ、本当にいいものしか出ていないと思うのね。ブームのときは玉石混淆だったから、ある意味それが衰退の原因のひとつだったのかもしれない。でも今は、まず原書の編集者の目を通った作品を、日本の編集者が厳選して、第一線の翻訳家が訳しているわけだから、「読まないと、もったいないのに」と言いたい。
佐藤  みんなで言わないと。もっと、翻訳ものの面白さを。
亀井  そう、言わないと。バブルの頃には、小泉今日子ちゃんなんかがラジオなどでさかんに愛読書を紹介していて、その効果も大きかったみたいなのね。最近の話では、越前(敏弥)さんが『解錠師』(スティーブ・ハミルトン著/早川書房)の主人公を「嵐の二宮君をイメージしながら訳した」って言ったら、嵐のファンの間でわーっと広がったという話を聞きますし。やっぱり、頼みはアイドル、だ。
佐藤  BS放送やラジオでは、本を紹介する番組が少し増えてきたかな?という気もするんですけどね。地上波のテレビなら、伊集院光さんの『100分de名著』(NHK Eテレ)とか。
亀井  丸善の津田沼店に酒井七海さんという外国文学が好きな店員さんがいてね。1月末に『はじめての海外文学フェア』というイベントを開催していたの。50人の作家や翻訳家や評論家や編集者が「はじめての海外文学として読むのにぴったりな1冊」を推薦しているんだけど、いわゆる古典は避けて、本当に初心者が入りやすい作品を挙げることにしたら、その中に『ハロルド・フライ…』も入っていたんですよ。大きな台に50作、それぞれに推薦文のPOPがついていて、そうしたら、結構売れているみたいなのね。ただ置くだけじゃなくて、何かそういう仕掛けをする必要があるということで、少しずつ全国の書店に広がっていったようですよ。
佐藤  売るところでは、酒井さんのような書店員さんの力に期待するとして、翻訳する側の戦略としては、どうしたものでしょう?
亀井  またバブルの話になりますけど、当時は20代の女性がすごく元気でしたね。どんどん外国に出ていって、何年かして帰ってくると、「翻訳くらい、すぐにでもできるんじゃない?」って感じで、もう、その自信、いったいどこから、何を根拠に出てくるんだい?と思ったものだけれど、とにかく元気があったの。
佐藤 「3年以上は勉強しないと無理なの!!」ってね。私もまさにその頃、翻訳学校でガイダンスをしていたので、まず彼女たちの鼻をへし折るところから始める(笑)という感じでした。
亀井  へし折られてやめてしまう子もいたけど、それでも残っていると、できるようになっていく。今の若い人には、そういう勢いが足りない気がするのね。バブル期は「今年より来年が良くなる、来年より再来年が良くなる」と思える時代だったけれども、40代より下の世代は、氷河期しか知らずに大人になっているから、あまり大きなことを考えないし、ちょっとかじってみて、ダメだったらすぐあきらめちゃう。
佐藤  でも、亀井先生がこの世界に入られた頃だって、そんなに楽にデビューできたわけではないですよね。
亀井  そう。あの手の本はまだ翻訳されない時代だったんだけど、あるとき、朝日ジャーナルに「ボビー・アン・メイソンのIn Countryなどという作品も、そろそろ日本で紹介されるべきだ」という記事が出たのよ。「こりゃえらいことだ!! ぼやぼやしてたら、誰かが持っていっちゃう」と思って、知り合いに頼んで調べたら、ブロンズ新社が版権を取っていることがわかったの。ブロンズ新社はまだできたばかりの小さな出版社で、本当は有名な女性作家に訳してもらいたかったんだろうけど、ともかく私はこの本にかける熱意をめんめんと綴った手紙を訳し上げた原稿に添えて。そうしたら、「これで行きましょう」ということになって。
佐藤  それ以来ずっと、ブロンズ新社さんと御縁が続いているんですものね。
亀井  同じ頃に出た『読み聞かせーこの素晴らしい世界』(ジム・トレリース著/高文研)も、実は持ち込みだったんですよ。あれは、たしか天声人語で「最近子どもが本を読まなくて困るというけれど、アメリカにはこういう読書のためのガイド本があって、それに触発されて学校で朝の読書運動などが始まっている」という話を読んだの。新聞に出るぐらいだから、もうどこかが目をつけているよね…と思いながら、とりあえず原書を取り寄せてみたら、これが面白かった。高文研も翻訳ものは出したことない出版社だったんだけど、
「面白いからやってみよう」ということになって、結局、20何刷りまで出たかなあ。今思うと、あの本が、小学校の読み聞かせ活動や、朝の読書時間のきっかけとなったんですよね。
佐藤  出版社のサイトを見ると、持ち込みOKと書いてくれているところもあるんです。持ち込んだからって、お返事なかなかくださらないけれど、シャットアウトされているわけではないんですよね。亀井先生は以前から受講生に「自分で原書を探して持ち込みなさい。レジュメの書き方教えてあげるから」って、言い続けていましたものね。
亀井  私の時代は『タイム』や『ニューヨークタイムズ』を購読して書評欄で面白そうな作品を探したものだけど、今はネットで海外の新聞の書評欄が読めるし、ベストセラーリストもすぐ検索できる。たとえば英語圏の作品ならアマゾンのUSAとUKなどをのぞけばいろいろ出てくるでしょ? それで「わ、面白そう」と思ったら、ポチッとすれば、すぐに本が届くじゃない。ブームの頃は、原書がゲラの段階でもうどこかが翻訳権を取っているような状態だったけど、今は意外と空いていたりするんですよ。「何かやりたい」と思うなら、自分で見つけて、自分から取りにいかないと。
佐藤  ネットのおかげで原書探しが楽になったことと、版権が比較的取りやすい状況であること。これはバブル期にはなかったアドバンテージですから、あとは先生がデビューしたときのような根気と情熱で切りひらくしかないですね。さて、先生ご自身はこの春、教える仕事にひと区切りつけられたわけですが…。
亀井  翻訳学校は講師に定年がなくて、受講生に卒業がないでしょ。いようと思えばいつまででもいられるから、きりがないんだけど、年も年だし、ここ2年ほど引き時を考えていたの。(学校側から)「辞めてください」とはなかなか言いづらいだろうし、自分で判断のつくうちに区切りつけたほうがいいな、と思って。だって、正しい判断ができなくなって、「いいや、辞めない!!」なんて言い出すと困るから(笑)。
佐藤 そろそろ好きな作品だけ訳していくのもいいかな」と仰っていましたけど、これと思うものはおありですか?
亀井  以前訳した作家の別の作品とか、ヒット作の続編とか、いくつかあるんだけど、ほかには、児童文学の名作の訳し直しをやってみたいという思いがあるのね。昔の大家が訳したものは、たしかにすごくうまいけれども、どうしたって言葉が古めかしいでしょう? 孫が10歳なので、翻訳ものを読ませたいのですが、その前に自分で読んでみると、「この訳じゃ違和感があるかも…」って思うこともあるから。特に会話の部分をね、もっと感情移入できるような、その情景にふさわしい訳にしてみたいんですね。そういう仕事があったら、飛びつくな
インタビューを終えて
 翻訳文学を絶滅させないためには、いろいろな人が、いろいろな場で「読まないと、もったいない」と言い続けることが大事——その精神で、私が推薦する作品は、亀井先生が訳した『熱帯産の蝶に関する二、三の覚え書き』(ジョン・マリー著/ソニーマガジンズ)という短編集です。出版されてから10年くらい経ちますが、何度読んでも、ワクワクしたり、しっとりしたり、ズシンときたり、いろんな思いをさせてくれるので、年に一度は、なんとなく開いた話を読んでいます。ご自身にとっても「たくさん訳した中で、いちばん気に入っているもののひとつ」だそうで、亀井先生のあの訳でなかったら、こんな風に繰り返し読むことはなかったかもしれないな…とも思います。
佐藤千賀子

 

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