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■ リンゴをさがせ!  
   
翻訳家 夏目大   

 リンゴとは、リンゴ・スターのこと。言わずと知れたビートルズのドラマーだ。字の多い絵本。ぎっしりと描き込まれた細かい絵の中からリンゴを探すゲームをしながら、ビートルズの歴史を知ることができる。ビートルズの初心者でもよくわかるという触れ込みだが、なかなかどうしてマニアックなこと、深いことも書いてあり、昔からのファンも楽しめる。要するに誰が買っても面白いよ、ということです。

 翻訳をやっていると、「専門分野」は何ですか、とよく尋ねられる。この質問がとても困る。私はただ翻訳が好きで面白いからやっているだけであって、何かに特別、詳しいからやっているわけではない。あえて言えば、「専門分野は翻訳です」ということになる。何よりも得意で詳しいことは翻訳だ、そうとしか言いようがない。他に何か得意なことがあればその仕事をしているだろう。ただ、この『リンゴをさがせ!』は今まで手がけてきた中でも唯一、「これは専門分野と言ってもいいかも」と思える本だった。何しろ中学生の頃からさんざん聴いて、数々の文献も読み漁ってきたのだ。だいたいのことは調べなくても知っている。たとえば、曲の邦題などもすぐにわかるし、関連する人物の名前もほとんど頭に入っている。そういう本を訳すと何が起きるのか。

 英字新聞で日本のニュースを読んだことのある人はどのくらいいるだろうか。本当に、今朝知ったばかりで記憶も鮮明なニュースをすぐに英字新聞で読むのだ。やってみるとわかるが、何とも言えない違和感がある。「え、これこんなふうに表現するの?」と思うところがすごく多い。なんとなく「こういう英語で書いてあるかな」と想像していたものとは似ても似つかない。特に印象に残っているのは、日本の「内閣改造」のニュースを英語で読んだ時のことだ。「内閣改造」だから、"cabinet alteration"とか何とか言うのかと思ったら、なんと"cabinet shuffle"と言うのである。確かにあれは、何かを作り替えているというより、トランプのシャッフルみたいに、同じ組み合わせのカードの並べ替えをしたくらいの話だから、意味はよくわかるのだけど、最初は驚いてしまった。これはつまり、この文脈の中で"cabinet shuffle"を見た時は「内閣改造」と訳さなくてはならない、ということでもある。「内閣入れ替え」では何のことかまったくわからない。予備知識がない人だったら、そう訳してしまっても不思議はないだろう。『リンゴをさがせ!』を訳している時はそういうことの連続だった。

 原文を読む前から知っている話が次々に出てくる。ああ、あの話か、すぐにピンときて読むと、いちいち「えー、こんな表現するの」「書く順序、変じゃないの」という箇所に出くわす。これが文化の壁、というものなのだろう。たとえば、ある事件についてのジョン・レノンの感情について書いてあったとする。"He was very sad."と書いてあったとしても、ジョンの感情は日本語で言う「悲しい」ではない可能性がある。

 そういう作業を続けていると、だんだん不安になってくる。これまでにしてきた仕事は大丈夫だっただろうかと思う。もちろん、書いてあることを十分に理解して訳してきたつもりだが、ビートルズの話ほどの理解度だったのだろうか。本当に理解できている文章であれば、原文にもっと違和感がなければおかしいのではないか。得意な仕事を手がけることで、逆に謙虚になった。矛盾するようだが。

 思えば、コンピュータのマニュアルを英文で読んでから、実機に触れてみるというのが私の翻訳の原点だった。英文を一応、理解していたつもりだったのに、実際に使ってみると「あ、そういう意味だったのか」といちいち違和感を覚える、私の拙い英文理解より、実機を触って理解したことの方が当然、正しい。つまり、その英文を日本語に翻訳する時には、実機を触っての理解に基づくべきだ。どの分野のどんな文章を翻訳する時にも同じことが言える。『リンゴをさがせ!』で私はまた原点に立ち返ることができたのだと思う。





「自訳自解」とは
分が詠んだ俳分で釈する「自句自解」になぞらえた言葉で、俳人でもある翻訳家・金成希氏による造語。翻訳家が分の書・文・語について分で説する、の意。